フランス視察の報告 2
5 パリ
同日午後にパリに移動しました。フランス到着日にパリに滞在してから、ヴェルサイユ宮殿に移動してツアーは始まりましたから、この時がパリ初訪問という訳ではありませんが、しかし渋滞の歓迎を受けることで、パリについて思い出す印象はこちらの方が強いものがあります。この渋滞は予想するよりは短時間で抜け出るのですが、しかしすぐにまた別の渋滞に入るのを頻繁に繰り返し、それで、結局はパリ市街の大きさから考えると、長くツアーバスの中に座り続けて、そこからパリの街並みを眺め続けることになりました。午後七時前にパリのエリアに入ってから、パリ市内のホテルに到着したのは午後九時前でした。
夕食は外で食べようと、ホテルの周囲を歩いてみましたが、選んだ道筋には中近東系の食事処ばかりで、店の中に居る人も、その地域出身の特徴ある人たちばかりでした。おそらく、この周辺はそこからの移民が、しかもつい最近のではなく、かなり前からパリに移り住んだ人たちが集まっている地域なのでしょう。
(食事につきましては、フランス料理と呼べるものを出す店がとうとう見つけられず、初日に別の国の料理でもあるまいと、一旦はあきらめかけましたが、空腹も我慢できるものでなく、鳥のグリルとパンの一種を持ち帰りに売っている店で買い求め、ホテルの部屋にて口にしました。備え付けのテレビを点けておりますと、単語クイズの回答を競う番組が流れており、時には小難しい語彙を回答して得意げな出演者を映しておりました。)
最近流入した難民により治安が悪化したとのニュースがしばしば流れ、つい注意がそこに行ってしまいますが、すでに相当の年数定住し、ブラジル・サンパウロのリベルダージ日本街のようなエリアを形成し終えている人たちもいることも、忘れるべきでないと意識をあらためました。
ここでフランス到着の夜に泊まったホテル周辺のことを記しておきましょう。もう深夜でしたが、ホテル入口から外をうかがうと、そんなに雰囲気の悪さも感じられず、(私はブラジルのサンパウロ、サントスに数年過ごしたことがございまして、治安の程度を感じ取るセンスは、それなりに養われておりますので、このような判断をした次第です。) 飛行機の疲れはありましたが、初めてのパリを見たい気持ちも抑えられず、深夜の徘徊に乗り出しました。
もう人の歩く姿はどこにもなく、深夜の、おそらく普通の住宅が中心となったエリアを、気の向くままに、あちらへ、こちらへと足を進め、ある場所では集合住宅、日本の昔の公団団地よりはランクが上で、やや日本の普通のマンションに近いけれど、外見は集合住宅だろうとしか言えない、そんなものが立ち並んでおり、ある通りには不動産屋が、日本のと同じように、扱っている物件の間取りと写真を、日本よりはおしゃれに仕立てて、何枚か並べているのを目にし、別の通りでは門を閉ざしている学校の前を通り過ぎ、大きな通りにでると、車の行き来も当然に全くない道の先の方までを眺めてと、そんな風に深夜の徘徊をいたしました。
もうそろそろホテルに帰ろうと戻り路をたどっておりますと、どこからかパンを焼く香りが流れてきました。匂いを頼りに出元へと向かって行き、パン屋を見つけ出して、こんな時間からパンを焼き始めるのかと驚きながら、パン屋の前にしばし佇んで、朝になって周囲のフランス人が買いに来る様子を想像して、こんな観光の仕方もありだなと一人面白がって、そこからホテルに戻りました。
フランス到着初日のパリの見分はこのようなものでしたが、人影を見ずに言うのは速断かもしれませんが、このエリアは確実に本来のフランス人が居住するエリアでありましょう。此れと数日後の彼のエリアとを比べますと、深夜の静けさを差し引いても、落ち着いた穏やかな空気が流れていて、日本の住宅街やベッドタウンとよく似た雰囲気であったと思います。
××日のことに戻しましょう。この日は早朝よりホテルを出て、地下鉄を使ってリヨン駅に向かいました。ここは大きなターミナル駅の一つで、駅構内は多くの乗降客でにぎわっておりました。駅舎の外に出ますと、7時を過ぎておりましたが、まだ太陽は上りきらず、曙光の先駆けが遠くの空に差し掛かるのみで、駅前の広場にも、周辺の建物にも人数は少なく、早朝の街の佇まいを呈しておりました。
そこから散策を開始し、とにかくセーヌ川に向かおうと決めて、セーヌの川岸におりて、そこをずっと歩いていきました。ここでもまだ人は少なく、姿を見かけたのはごく数人でした。やがてパンテオンのドームがちらちらと通りの向こうに見え始めたあたりで、それに惹かれてきましたので、川を離れてパンテオンを目指すことにしました。
パンテオンの近辺をしばらく回りますと、ここで私にはどうしても注意がいってしまうことがありまして、多くのフランス人が紙の本を手にして、ものを待つならその場で読んで過ごしている、そんな姿があちこちに見られたことでした。
その散策に見つけた書店の何件かに入りもしました。池袋のジュンク堂のように、数階に及ぶ大型書店もございまして、ここでは本を探す人が多いのも驚きましたが、銘々が購入しようと手にしている本の数の多さにも驚きました。誰もが四、五冊は必ず抱えて、書棚をあちらこちらに本を探し続けておりました。
3人ほどのご婦人が、ギリシャ・ローマ古典が平置きされたテーブルや、縦置きにならべた書棚を物色して、続々と手元に集めていく光景などは、私には予想もしなかったもので、大変に驚きました。なによりこのご婦人方には研究者の雰囲気がなく、普通の読書好きであったのが、その理由です。日本でこれらの翻訳が、ポピュラーな小説を求める気持ちのままに手にするには、ちょっと敷居が高く敬遠されるのと比べると、とても大きな相違点であるかと思います。
これも日本に帰ってから注意しておりますと、フランスでは紙の本を読むのが、今でも主流であり、書店も書籍の販売で十分な経営を続けているそうでして、日本で電子書籍への読書媒体が遷り、書籍の購入が減り、その結果、書店閉店が増加している状況に比べると、相当な違いがあることを知りました。ここから何か興味深いことが掘り下げられるかとも考えております。
この日はさらに歩いてバスチーユ広場まで行き、そこからホテルに帰りました。
翌日××日も早朝よりパリ中心部の散策に出かけました。地下鉄のオペラ座近くの駅で降りて、オペラ座の前を通り、コンコルド広場へと出たところで、すっかりと明るくなり、広場の周囲の建物に黄金の日ざしが当たりだし、セーヌ川にかかる橋のたもとまで来ると、街並み一帯が朝日に照らし出されるようになり、しばらくその様子を眺めて過ごしました。
セーヌ川沿いをオルセー美術館の方向へ歩いておりますと、先日のパリ中心部の散策では見かけなかったジョギングをしているフランス人を、かなり多く見かけました。オペラ座近くの駅まで乗車した地下鉄の車中でも、ジョギングスタイルの人を幾人か見かけもしました。この日の朝方に見かけたジョギング中のフランス人の数は、最終的には、相当な数になりまして、軽いジョギングブームのようなものが起きているのかと不思議でした。これは日本に帰って調べても特にそういったことはなく、まだはっきりとしませんが、ジョギングの習慣がかなりの人に定着しているのではないかとみております。
オルセー美術館は、当初は入場する予定ではありませんでしたが、入口の入場待ちの行列が予想に反して短いもので、すぐにも入れるようなので、予定を変更して美術作品の閲覧にむかいました。またこの日は、ゴッホの展覧会も併催されておりましたので、せっかくの機会であるからと思い、こちらにも足を運んだのですが、これが思わぬ収穫でありました。
私のゴッホのイメージには、厚塗りの暗い絵というものがあったのですが、アルル時代に焦点を当てたその日の展覧会では、このイメージに真逆の、明るい色調による爽やかさを感じさせる絵が数多く展示されていたのです。これは私のゴッホ像をまったく改めるものとなりました。これも日本に帰って、折々、注意を向けて、そこで得たゴッホ理解を深めてきております。これもまた財団の活動に携わる身として、何かしらに結び付けたく思っております。
ちなみにオルセー美術館所蔵の、著名な名品の数々につきましては、何か私の感受性の衰えを告げるようで恥ずかしいのですが、実物を見ることによる特別な感興は起こらず、この理由が、私の体調にあるのか、あるいは近現代の作品の性格であるのか、いまだに思案しているところです。例えば印象派の絵画の起こす興は、美術館で構えて鑑賞するぞという時ではなく、もっとリラックスした気持ちで見ているときに感じるものなのではないか、そんなことを自問自答しております。
そしてオルセー美術館を出て、ノートルダム寺院前の広場で、設えられた大きな階段状のベンチに腰を下ろし、しばしそこで周囲を見渡しながら休息をとりましたが、ここには世界各地からの観光客が集まっておりました。また家族連れ、老夫婦、青年子女のグループ、ツアーの一団、様々なタイプの観光客がおりました。世界の観光地である事実を確認はしながら、率直に感じたことを申しますと、この寺院前広場自体は、そういう国際性に相応しい場所ではない、という妙なズレを感じました。
これは、寺院が宗教的な存在であるから、といった理由ではございません。うまく表現できませんが、何かこう、いるならいればという調子で、無関心に放り投げられたような扱いで、私を含め観光客がそこに集まっている、と言えましょうか。休憩に合わせ、ノートルダム寺院を真正面に見る、いわゆる観覧座席を設置しているのですから、観光客への用意をしてはいるのでしょうが、かといって、そこには迎え入れるというほどの歓迎する思いまではない、そんな素っ気ない扱いを感じたのです。
ふとそこで、ジョギングにいそしむフランス人の姿が思い出されました。と言いますのも、彼らがジョギングに集中している様子や、道に居る観光客をよけながら走る様子にも、どこか観光客を気にしている意識がほとんど持たれていないように、こちらには感じられたのです。この感覚を一度意識し始めますと、先々でも繰り返し感じるようになりました。
これについて時間順序を外れて述べますと、フランス人は、特にパリ在住者の様子のある人は、確実に、観光客は目に入っていないし、意識もしていない調子で、銘々のことをしていると観察されました。ルーブル美術館前の公園の芝地で、子供を遊ばせている母親、そこから目を転じて、程よいところに腰かけて、お昼の軽食をとっている女性、彼らのその姿は、観光客がいなくても、そのままそうしているだろう様子でした。とある通りで、脇の小道から出てきた神父と修道女は、まるで何百年もそうであったように、何かを小声で話し合いないがら、ゆっくりと私の側を通り過ぎていきました。
この観光客を意識していない様子は、多くの観光客をパリに呼び込んで平気できた、フランス人の秘訣か何かから来るものだと考えています。その正体をまだ見極め切れていませんが、よしそれが捉えられても、そのままにこれを真似るべきだとは思いません。日本人は日本人なりに対処の心の持ち方を見つければよいでしょう。ただこれはもう少し将来での課題でしょうか。
話を戻しまして、広場の観覧的な階段ベンチから腰を上げ、火災に遭ったノートルダム寺院のすぐそばまで足を運びました。修復工事用にくみ上げられた足場に大部分が覆われておりましたが、ところどころむき出しとなった箇所を見ることもできまして、太い木材をうまくつなぎ合わせ、大きな曲線をえがき、石材がそこに乗せられている様子を、とてもよく観察することができました。こういう姿の寺院は、この時でなければ見られないものですから、よい巡りあわせであったと思っております。
そこから繁華街に向かい、有名なデパートなどを見て回りましたが、このあたりになると観光客がとても多く、落ち着いて観察することも出来ませんでした。人の多さは、東京の渋谷や池袋の繁華街とまったく同じです。違いは、ほとんどすべてが外国からの観光客であるところだけです。ディスプレイや店内の様子も、ほぼ同様の陳列と品ぞろえです。日本では見かけない商品がある、それが楽しめれば、もとより繁華街のショッピングが苦にならなければ、このあたりを楽しむことができるのでしょう。
私には、それがうまくできませんでしたので、早々にそこを切り上げて、ホテルへと足を向けることにしました。
以上、まずは報告いたしたいことを中心に、フランス視察での見聞を記してみました。この他にも述べたいことはございますので、まとまり次第に、ご報告をいたします。
フランス視察の報告 1
令和5年11月××日から××日に、フランス各地を巡るツアーに参加し、各地を見分してまいりました。これにより得たものを財団活動に役立てたく考えております。以下に見分したものとそれに対する感想や、そこから考えたことを概要的に記して、視察報告としてまとめました。
1 ヴェルサイユ宮殿
現地××日深夜にドゴール空港に到着し、日付上は翌日××日にパリ市内のホテルにつきました。この時のパリ見分に関しましては、各地のツアーを経て、再びパリに滞在したときのものを記すところでまとめて記します。
フランスツアーの初日、現地時間で××日は、ヴェルサイユ宮殿を訪れました。ツアースケジュールもあり、探訪は主要な箇所に限られましたが、ルイ14世により華麗、壮麗に仕上げられた建築の壮大さ、辿っていく部屋の壁に飾られた絵画などが、深く印象に残っております。
経験豊富とすぐにわかる様子のガイドが、一部屋ごとに抜かりなく解説をしてくれましたが、全体に貫くのは、ルイ十四世が、諸外国に向かってフランスの文化、芸術の水準の高さを見せつけることに、どれほど意を砕いていたか、そしてその狙いの実現物であり、またその舞台装置がヴェルサイユ宮殿である、ということでした。
ルイ十四世は、日を開けず、来客や訪問客のいるところに必ず姿を現していたそうで、彼の意図するものの舞台にとって、彼自身もまたその一部であったのでしょう。そういう風に見せることに才能があったのと通ずるのでしょうか、舞踏、バレー、そしてオペラも彼の時代に、多分に彼によって、大きく発展していくことになったと言います。
太陽王の呼び名通りの名実を備えて、この宮殿が当時のフランスの国威発揚の舞台であったことを、直接に実感できましたことは、ここを訪れた最大の収穫でありました。フランスの最盛期と評されたり、そのように懐かしがられたりするのも、まったくその通りだと納得させられました。
そんなヴェルサイユ宮殿の重要性が経験できたことは、フランスの歴史を考える際に、常に強く、明瞭に思い出されてきて、歴史記述の背景理解の大きな材料となっております。
ところで、確かに宮殿は随所に素晴らしいものではありますが、やはり気づかされるのは、長い時間を経た変化です。フランス革命のときには、家具、装飾品、備品等が数多く収奪され、あるものは買い取りなおされ、あるものはレプリカが設置されておりますが、かつての状態にもはや戻ることは不可能となっております。また、収奪後もしばらくは、修繕や手入れなどが怠られ、放置されていたことによる劣化も隠せません。
ですが、これもまたフランスが革命の後に辿ったものを想像させる手がかりとなり、書物だけでは私の理解の中につくりだせない、大きな変動の波がどれほどのものであったかを思い描かせてくれるものとなっております。
さらに付け加えます、初日であったので、この時点では軽い印象でしかありませんでしたが、外国からの旅行者を多数引き寄せる名所、そんな雰囲気がどこか漂っていまして、ツアーバスが宮殿の側に駐車し、そこで下車した付近は、こう記すのも言葉の選びが悪いでしょうが、ディズニーランドのような遊園地の駐車場に似たものを感じてしまいました。
同日の午後は、モンサンミッシェルへと移動し、夕刻に同地に到着いたしました。ツアーバスの移動は何度もすることになりますが、高速道路より眺めた風景は、今回の視察の収穫の一つと言ってもよいものでして、なだらかに起伏し、遠くまで広がる土地の様子は、これは実見しなければどのようにしても手に入らない映像として、貴重な記憶上の財産となりました。
夕刻に到着した後は、遠くにモンサンミシェルを眺める場所に宿泊しました。島にはもう渡ることはできない時間でしたが、せめてできるだけ近くで見ようとしましたが、すぐに日が暮れて闇につつまれましたので、島の姿は灯がいくつかまばたくのを手掛かりに輪郭を想像するものでしかありませんでした。
そんな風に遠く眺めておりますと、風に流されて、島からの鐘の音が聞こえてまいりました。これは心を洗うという形容がぴったりするものでして、長く繰り返されて続く鐘の音を、風の中、しばらく聞き入って時間を過ごしました。
翌朝、現地時間××日、モンサンミシェルへ渡りました。砂洲の中に突き出て存在する島へは、砂洲上につくられた橋を通りましたが、近づくにつれて、巨岩の上に建てられている姿がはっきりとしてきて、その特殊な様子にまことに圧倒されました。
僥倖なことに入場が開始直後でしたから、人が少ない中を日本で言う参道を歩くことができ、まだ店も開いておりませんでしたから、何を見ても本来の姿を見せてくれているように感じました。日本語の路地とでも言うのでしょうか、参道から外れる小道の数々もさらに静かなところへと通じているようで、ツアーのグループを外れて、その奥へと入っていきたい誘惑を抑えるのに、大変苦労したほどです。
もっと幸いなことに、修道院の建物の中に入っても、同様に人が少なく、時には周りに誰もいない中、私一人で部屋から部屋へと、回廊や通路を歩むことになり、これは望んでも得られない、また他では味わえない体験をいたしました。
かつての食堂や集会のための大きな部屋で、ただ一人、石の壁に包まれた独特の静かさを感じながら、その部屋の佇まいに浸った時間は、今でも貴重なもののひとつとなっております。そこから想像されてくる修道院の質素、素朴さが、書物とは別の仕方で知り得たことは、私には、とても貴重な体験でありました。
ところでこのように記した後で、いささか不釣り合いなことを付け加えます。以上の探索を終えて建物から出た頃には、他の多くの旅行者たちも島に到着しており、土産物屋や飲食店もにぎやかになっておりまして、このざわめきの中を歩いていると、正直、江の島の参道と変わらないものを感じてしまいました。しかしこれも観光地化の実態ではあり、有益な知識でありましょう。
3 シャルトル
同日午後は、シャルトル大聖堂へ移動しました。この大聖堂のある街は、その一角しか実際には見ていないのですが、しかし、フランスとはこういう土地だったのだな、という思いが強い街でした。
街全体の一面か一角からにとどまるのでしょうが、私のシャルトルの印象は、日本の鎌倉のような街というものでして、例えば主要な道路は確かに広いのですが、街全体と比すれば少ないと言えて、それ以外は古くからの細い道が縦横につながっている、そういう作りになっているのです。
ですから、これも日が暮れてから到着して、しばしホテル近辺を散策いたしましたが、どこを歩いても車の通れない、石畳の細い道ばかりで、またそれに面して建てられた住居なども、周知のように何百年も前からのもので、これに挟まれて歩くと、遠い昔もこのようであったのだなとまざまざと感じられるものでした。
その時のワンシーンですが、私の歩いている上の方で、窓を閉める音が聞こえ、それにつられて見上げると、老婦人と目があったのです。すると綺麗な声で、ボンソワールと言ってくれまして、そのフランス語の美しさに呆けて、しばし遅れましたが返事を返して、そのまま歩いていく間、何度も私の頭の中に、耳の奥に、先ほどのボンソワールが繰り返されました。
翌日××日の午前に訪れたシャルトル大聖堂は、ステンドグラスに有名なところですが、その美しさは評判にたがわぬものでした。しかし、私は、この大聖堂を高台に据えることで、この街そのものが持つ一種の美しさの方が、強く記憶に残っております。朝早く起きて、ホテル周辺をだいぶ遠くまで足を延ばして歩いておりますと、建物の隙間から、少し開けたところなら大聖堂の全体が、どこを歩いていても見上げたところにあるのです。
大聖堂のひざ元にいる、という感覚は、ここに住む人たちにとって一番に愛されているものではないでしょうか。夜に歩いて気づいたように、どの建物も古い時代からとわかるものばかりで、大聖堂と共にこの街は存在し続けてきたと思わされるのです。
またこの散策は早朝に行ったものですが、宿泊元のホテルの側を流れる川、川沿いの緑、緑地の中の公園、これらもまた印象深い美しさを感じさせるものでした。シャルトルの街全体の比率でどれほどかは、実見できなかったのでわかりませんが、しかし、緑の多さもまた、この街の良さの一つではないかと感じております。
そこからしばし足を進めると、また時間がたつと、通勤に、通学にと人々の姿が多く見られるようになり、この様子も興味深いところがありました。学生年代の青年少女はまじめそうな、日本の同じ子供たちと変わらぬところがあり、出勤の途上で子供を預けるのでしょう、幼児を連れて歩く人たちも、これもまた、真面目そうな様子で、どちらも穏やかなフランスの日常の一コマという印象でした。
ここでもまた、今までの描写にそぐわないことを言わねばなりません。何かと時間を見つけて、街のあちこちに足を延ばしますと、現代的なエリアも存在していて、自動車の通る繁さは東京の大通りと変わらないものでした。日本についてよく言われる、古いものと新しいものとの混在する様子は、フランスにも言えることだと、私は考えております。
4 ランス
××日の午後はランスへと向かいました。ランス聖堂は、確かに古くからのものに違いはないのですが、このランス自体はモダンな都市と呼ぶべき場所です。目につく建物は、日本のビルディングと同じものが多く、それがやはり東京と同じく、連なりあっています。長方形の壁中にガラス窓が並んだ、そんな建物を見ると、遠くに来たという感覚はあまり感じられませんでした。
そこにあって、ランスがフランスで人を呼ぶ街の基となった医療関係の、19世紀の建築のようですが、古い様式の建物があるですが、これが目に入ることで、再び、ああフランスに来たのだな、という思いがよみがえりました。
ランス大聖堂について興味深かったのは、聖堂内部に歴史紹介のパネルが何枚か展示されておりまして、何年にはここで何があったと紹介説明しているのですが、二十世紀の出来事をまとめたものの中に、藤田嗣治が洗礼を受けたことが含まれておりました。著名な歴史的事件に並んで、藤田嗣治が選ばれていることに、日本での評価とはまったく異なることを知りました。
ちなみに日本に帰って、藤田のことを調べなおしますと、戦前の藤田嗣治のフランスでの人気は、とても大きなもので、ちょうど最近、アメリカで大谷選手が注目を浴びているのと変わらない程度と言ってよいものであったのを知りました。このことにつき、もう少し調べてみると、もっと興味深いことがあるのではないかと考えております。
教養の再定義、再構築、その必要性と意義 三
どんな知識を持つことが教養であるかという方向から、教養の範囲に入る知識を定めることは有益でない。文化と教育の内容によって、教養の中身も異なり、それらが変化するにつれて、教養に位置付けられるものも異なってくる。むしろ行うべきことは、学校で与えられ、読書から取り込み、その他の機会に得た知識を、どのように教養として活用していくかという意識の持ち方である。
教養とは、認識の土台となるものであり、批判の原理のことであり、それによって自己の判断を確信あるものにし、選択に希望を、そしてこの現実世界に生きることに勇気を与えてくれるもののことである。だがそこで見落としてならないのは、様々な機会に得てきた知識を、認識の土台としてどう評価するかの検討、またそこから批判の原理を見出していく反省である。
この意味の教養が意識されない現在、諸学問は専門知識になり、長い研鑽や鍛錬は忌避されて、それに比べれば短期間のトレーニングが好まれ、かつては教養に繋げられた知識も、トレーニングの初期的なものと限定的に意義付けられている。文化的、歴史的事象は、例えば文学、芸術、音楽でならば、プロフェッショナルの特別な習得物に対して、かつての教養は概説的、概観的知識を持つに留まるものとなり、広い知識とは様々なトピックを広く記憶していれば十分なことになっている。そこでは個別な領域ごとに分たれた知識が、それぞれの領域の外とは何のつながりもないままになっている。
精神の中に教養を持つには、様々な知識を教養として昇華させねばならない。教養の形成に必須のことは、様々な知識を直接の連関にとどめず、認識の土台や批判の原理として活用する意識である。ここに軸足を置いて言えば、教養とはかかる意識的反省によって精神の中に形成され、所持されていくものなのである。
様々な知識を教養へと発展させるには、世界における人間の生という事実、多くの人々と共に生きている事実に着目し、そこで人間はどんな存在であるか、何を為し得るのか、それにどんな価値と意味があるのか、何が善く生きることなのか、つまり幸福や正義とは何か、これらの問題に常に心を寄せ、時々に見出す答えとそこから展望される得るべき答えの方向へと遠く眼差しをむけて、機会あって獲得していく諸々の知識、世界の理解、現実の意味を問い直し、検討しなければならない。一言で言えば、かかる営みを本性とする人間精神についての反省による深い理解と厳格な考察が必要なのである。
教養の再定義、再構築、その必要性と意義 二
教養の語はドイツ語の Bildung に当たるものだが、英語では culture の語を用いる。この英語との対応から現在の辞書での文化に関する知識との説明が与えられたのであろう。しかし文化は、一般には社会の人々における事象を言い、行為や事物に関して人が振る舞う様子、関心を持つ様子などに観察されるところから理解されるものであり、直ちに精神内面のものを指している言葉ではない。
教養は精神の中にある現実認識の土台、世界理解の原理を根幹とする。そしてこれらは精神の中に獲得された能力であり、意識の中に築かれるものである。そこで英語ではまた教養を指して education の語を用いる。ここから、日本の大学の学科名称で教養学部や教養課程とあるように使われてきた。だが大学教育の実際にあっては、高度な専門にとっての基礎知識のことと理解されたり、何かしらの概説的な取り扱いか、歴史的、文化史的解説を与えたりすることになってしまっている。
教養は現実全般に対する認識の土台、理解の原理であり、特定分野の基礎知識や特定の歴史的、文化的事象の概観的知識ではない。そうしたものに止まってしまうと、現実世界に対する態度を生み出すものとなり得ないのである。だがそれでも、文化と教育によって人の精神の中に形成され、獲得されるものが教養である。
教養という言葉が使われない、それはつまり教養の観念が明瞭に人々に持たれなくなっているということである。明瞭さを欠いてしまったのは、世界に対する自らの態度を定めるためには、精神の中に認識の土台を据え、理解の原理を所持していることが重要であるのを見失ってしまっているからである。
この原因は、大きく捉えれば、文化の変遷が進行しているからである。諸学問が変化し、歴史や政治の認識は様変わりする最中であり、世界への展望は捉え方を根本より変化しつつある。そして何が人間精神にとって須要なるものであり、批判の原理はどんなものであるべきか、これが見極められなくなっているのである。続く
教養の再定義、再構築、その必要性と意義
教養という言葉は、今はあまり使われるのを見なくなった。使われるはずのところでも、用いられる様子がない。これは教養という事柄自体が、私たちの意識から消えていっていることを意味しているのではないだろうか。
ところで教養とは何を言うのであろう。あらためて国語辞書を見ると、広い知識とそこから生じる品位とか心の豊かさと説明されている。この限りの意味ならば、私の理解しているところと重なる。ではその広い知識とは、どんな知識のことかとなると、私の引いた辞書の一つでは、文化に関する知識とあった。この説明が該当する用いられ方を確かに多く見たことがある。しかしそれでは博識に通ずる畏れがある。
広い知識のその広さが、知識の量とか、理解の深さとかを指すことがある。そうなると教養という言葉は、知的な優位を相手に感じさせる態度や様子を言うことになり、これへの反感や批判を込めて使うことも見られるようになった。
しかし教養はそんな外見上のことを指すものでなく、精神の内面のもののことである。揶揄的な使い方で岩波教養主義という言葉があったが、その由来の一つは岩波新書や岩波文庫の読書が、教養に資するものと考えられていたからである。
その新書や文庫の末尾には刊行の辞が収められている。「偽りなき現実認識、広い世界的観点、冷静なる科学的精神」を養い育てることが、岩波新書の目指しているものであり、また「あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理の提供」が岩波文庫の目的とするところであった。読者もこれらを意識して、現実に対し「確信と希望と勇気とをもってこれに処する自主的な態度」を目指して読書したである。
教養とは、反感、批判、揶揄の調子で用いる言葉ではなく、単なる博識でもなく、人間精神の中に現実認識の土台と批判の原理とを持ち、それによって様々な状況や事柄に対して自らの判断を確信できるものにし、それにより選んだところに希望を持ち、そのように生きることへの勇気を生み出すものを言うのである。続く
パリ旅行記 一
十一月下旬、一週間ほどでモン・サン・ミシェル、シャルトル、ランス、ヴェルサイユ宮殿、そしてパリで二日過ごすツアーに参加して、フランスを訪れた。フランスについて、またそもヨーロッパについては、書物を通じて知るばかりで、実際に自分の目で見るのは、これが初めてのことである。見てきたこと、感じたことを書き記しておこうと思う。
まずヴェルサイユ宮殿でのことから。早朝の開門前に到着したので、屋根をはじめとする各所の金の飾りは、朝の光に照らされて輝いていた。宮殿の中に入り、主だった部屋の絵画、装飾などをガイドが解説してくれるのを聞きながら歩いて行く。昔から一度はこの目で見たいと思っていた鏡の間も、早い時間のおかげで人の少ない中、落ち着いて余裕を持って見て回ることができた。
ガイドの説明では、彼の時代にフランスが大国となった影響力に、宮殿が重要な役割を果たしたと言われていた。またルイ14世推しと感じるぐらい、各種の芸術を始めとして、美的方向性が彼によって与えられ、定められたと賞賛していた。聞き通しての感想は、フランスといえば兎角ヴェルサイユ宮殿が言及されるのだが、それも当然のことであったのだという納得が得られた、というところだろうか。
宮殿からバスで移動して、モン・サン・ミシェルに、日の暮れる頃に到着した。暮れる中遠くに浮かぶモン・サン・ミシェルを眺めて、翌朝から参拝した。これも朝一番の入場であったので、参道は人少なく、建物内部でもほとんど人影を見ずに、静かな部屋、薄暗い廊下、無人の広間を通り抜けて、じっくりと見て通ったつもりで建物の外に出た。
まだ時間がたっぷりとあったので、城壁を辿り、ガブリエル塔、そのすぐ外の海の見えるところまで行った。それから橋を渡り対岸地区に戻り、そこから遠景にモン・サン・ミシェルを見て過ごした。ツアー旅程のスケジュールに時間の余裕が大きかったので、本当に存分に見て過ごすことができた。
そこからシャルトルへ移動した。ここへは暗くなる頃に街に着いた。食後、プロジェクションが施された大聖堂を見に行く。途中、窓の音がするので見上げると、老婦人と目が合うや、美しく優しい声で Bon soir と挨拶された。感心する一瞬の間があいたが、こちらも同じ挨拶を返して、大聖堂へと足を進めた。
翌朝、ウール川沿いを散策する。高台に立つ大聖堂は、建物の隙間あれば常に姿を見せてきた。その後、大聖堂を参拝する。続いてランスへ行くのだが、シャルトルの街とランスとを比較すると、シャルトルは古くからの街並みや建物が多く残っていたが、ランスは現代的建築が多く見られる都市の趣が強い場所と言える。ランスは、大きめの都会なら世界のどこでも見られる様子の地で、その中に大聖堂が一つ立っているという感じであった。
それからパリに夜になってバスで入った。高速道路での渋滞や大きな通りでの繰り返される停車発進を経て、モントルイユにあるホテルに到着した。付近は各地からの移住者が多く住む街区のようで、飲食店も他国風のものばかりが目についた。ロータリー側でのガイドブックに蚤の市とあるものも、安い衣料雑貨をそういう人たち向けに売るのが中心であった。
翌朝からパリをシテ島、サンルイ島を中心にした範囲で散策した。まだ暗い中を地下鉄で近くまで行き、朝日が建物を照らしだす頃に、散策を開始する。早出の旅行者をちらほら見かけると、やがてジョギングする人たちが増え、気づくと多くの観光客の中を一緒に歩くという感じで、昼過ぎまで気の向くままに、通りを曲がり、店を覗き、そして本屋に入って並んでいるものを物色して、午後遅くまで過ごした。
疲れたらホテルへ帰るのを二日続けて行い、ツアーのスケジュールで深夜に空港へと移動して、日本に帰国した。続く
日本リベラリズムによるリベラル的人格と世俗的人格との二重性 二
リベラル的人格と世俗的人格との二重性は、人の生活や行動の多くの場面にあって、明瞭に併存的に存すると覚知されないでいる。それらは識別困難な仕方で相互に融合し、重なり合っていて、自己認識上あたかも統一的なものの如くに思われている。そうして、時にリベラル的なものが主導的、時に世俗的なものが主導的であったりする。あるいは一つの事柄について、二つの人格からの判断や評価づけが混じり合って下され、しかもその一つの事柄について、相反する意味付け、時には矛盾する意味付けが、二つの人格から与えられることもある。
言わば日本人の多くが、そのような仕方で、常に絶えず揺れ動き、動揺しているのであるが、しかし同時に、日本人の多くは、それに慣れてしまっていて、そのようなあり方をするのが人の心だと誤った理解で受け止めて生きている。
さてこの二重性は、誤って統一的なものとみなされている時、それぞれ次のような差異を与えられている。すなわち、リベラル的なものは自己の思想や教養面であり、世俗的なものは心情的、常識通念的なものとされる。ここから一般的に、リベラル的なものは知的に上位のものであり、世俗的なものは下位のものとされる。
ところでこうした差異は本質的なものでもなく、根拠のあるものでもない。しかも併存的、共存的な二重物であるから、上下が逆転した関係にも置かれる。すなわち、世俗的なものこそ真実で、本当のものであり、リベラル的なものは空虚で、虚構的なものとされたり、よく言われるところでは本音と建前といった差異を与えられもする。そして建前と本音という差異に類似して、心の外面と内面、言葉に出来るものと出来ないものといった区別を与えられることもある。
このような二重の人格が真実に統一的なものでないことから、つまりこの人格に相関する世界を統一的なものと意識できていないから、あるいは同じことだが、統一的で総合的なものを構成できる地平を有していないから、日本人にとって世界は部分的で、断片的で、非統一的なものとなり、自らの行為や言動、認識や判断も、常に限定された局面に成立するだけのものとなっている。
日本人の多くは、日本リベラリズムによる悪しき精神構成によって、アクチュアルに体験するものは、常に部分的で、断片的であり、認識も判断も限定された局面でのものでしかなくなっているが、これはまた、普遍的述語の使用や普遍的判断というものが、正しく用い得ないということでもある。
これの良い実例も、やはりまた最高教説の平和主義に連関するところに見出すことができる。戦争を引き起こす原因や経緯なるもので、日本リベラリズムが言うところの様々な悪しきものは、日本人について語られるが、他の国の人についてそれが語られることはほとんどない。戦争への反省もまた、日本人に対して言われるが、他の国の人に言われることはない。軍備が他国に懸念と不信を生じさせ、平和とは逆の方向への原因となるということも、日本国には言われるが、軍備を増強している他国についてはちっとも語られない。
あるいはこんな実例もある。故安倍首相の政治について、独裁としばしば言われたが、共産党が非民主的集中により独裁的に指導されている団体であることは、ほとんど意識に昇らない。その他にも、忖度、癒着、権益確保など、日本リベラリズムからは悪しき行動とされるものも、日本政府や自民党政治家について常に言われるが、それらが日本の各種の社会団体に共通に見られることであるのに、それらが指摘されることはほとんどない。
これらのように概念それ自体では、日本リベラリズムの理解では普遍的なものなのかもしれないが、その概念の適用を見れば、その普遍性に従ったものでは全然ないものが、日本リベラリズムの主張に無数に見出される。こうした判断方法が可能であるのは、普遍的な概念を用いて、統一的で総体的な世界ではなくして、ある限定された局面で、そこに出現している限りのものという意味で特定の事柄に対して、日本リベラリズムは認識や判断を行っているからである。
しかしながら、ここまで概念と言ってみたり、認識や判断と言ってみたり、普遍的な述語づけと言ってみたりしたが、日本リベラリズムの主張にあっては、またリベラル的人格にあっては、これらは真実のところ、知的に保持されているもの、知的に適用されるもの、あるいは精神の作用の内容といったものではなく、情念あるいは感情に属しているものである。
日本リベラリズム教説の言説手法では、リベラル的な理念を人に抱かせるにあたって、感情の喚起が重要な役割を果たしている。しかし、日本リベラリズムの言説が人に生じさせるものは、畢竟、感情すなわち情念に属するものでしかない。日本リベラリズムの言説では、理念の理解あるいは概念内容の把握は行われずに、対象として指定された特定の事柄について、喚起された情念が説得の相手に抱かれることが目指されていて、またそれがそれによって実現される全てなのである。
情念は、同一人の内に於いて変わりやすく、不安定であるが、しかもかつ人間同士を対立的にさせもする。日本リベラリズムに止まらず、およそリベラリズムは、社会に対立を惹起するものであるのは、今日よく知られるところであり、これはこれで大きな問題であるが、今ここでは同一人の中での問題に注視しよう。
一人の精神における問題は、私が最大の関心を寄せ、その解決をとても重大なことと思い、その解消を図り、かつ解消の先に人が手に入れるものを、多くの人々と共にしたいと欲している問題は、情念に振り回されない精神の営み、知性とも悟性とも、理性の導きに従うこととも言われるであろう精神の営みを獲得することであり、かつまた、意識の内容を情念によって混乱させてばかりにしないで、理想、理念、概念、表象などを思考が扱うに足るものとして捉えて、およそあらゆる事柄に関する思惟を行えるようになることである。
これらのことを日を改め、別の表題のもとに記していこう。