リベラリズムについて 一

 リベラリズムが、少し落ち着いて考える人なら誰もが否定的な評価を下すものになってしまったのは、どうしてなのだろうか。ここで否定的と言うのは、全面的な心からの賛同を与えるのを躊躇うという意味で使っている。だがもし嫌悪や軽蔑の軽い程度を表す言葉、あるいはそれらの感情が喚起され、そこに至る一歩手前にある心持ちを意味する言葉があれば、それを使いたいところでもある。

 

 そうした受け止められ方がされるようになった理由として最初に思いつくのは、政治的勢力、また社会的影響力を有する人たちがリベラリズムに根拠を持たせた主張をするのだが、事実上その根拠たる価値の実現を目的としているのでは全然なく、直裁に言って彼らの利益を得るよう政治や社会の現状を変革する手段として利用していて、リベラルな主張の言葉の美しさの裏腹に、彼らが手にしようとする利益が見えてしまうからである。変革の結果、彼らの利益が実現する一方で、自分達から奪われたり制限されたりするものが明瞭に意識されれば、単に否定的であるばかりでなく、まさしく積極的な反発や拒絶に似たところにまで、人々の意識の中ではリベラリズムに与える評価は落ちていく。

 

 しかしここで、リベラリズムを否定することが、そも一般教養として、尊重すべき価値を尊重しないこと、そう出来ない愚かさや無知であると何の留保もなく考えられているから、積極的な否定を明言することができず、加えて、自らそうしないようとする意識内での抑制が働いてきて、もどかしい処理できない心持ちになる。これがリベラリズムへ否定的な評価が与えられるようになった、最初に思いつく理由である。

 

 しかしこうした理由では、リベラリズム自体に関わるものではないと言われることもあるだろう。ならば、リベラリズムそれ自体には何の問題もないのだろうか。

 

 私は、リベラリズム自身に、大きな問題があると考えている。その問題は深刻なものであって、それをそれとして理解しないから、リベラリズムは、あるいはリベラルな主張は、あるいはこう言うべきか、リベラルな志向から行われる発言と行動は、反発や嫌悪の一歩手前の感情で、あるいはそれを我慢して押さえ込んだ心持ちで受け止められるようになっているのである。

 

 さてでは、リベラリズムとはそも何であろうか。思想?、確かに思想辞典、哲学辞典の類書にリベラリズムの項目がある。暫しの間、この扱いに従うことにし、そうした事柄であると認めるに努めて言えば、リベラリズムとは個人の可能性を原理的価値とし、その可能性の実現に諸々の意義づけを行い、可能性の実現を阻害するものを字義通り否定的に評価する、すなわち非難の意味での批判を与えねばならないとする考え方である。この考え方からリベラルな主張がなされるが、それらは政治、社会、文化に於いて、個人の可能性の実現に寄与することを尊び、個人の可能性実現を妨げるもの(例えば、政治制度、社会的価値観、道徳、文化・芸術の理解等)を批判し、更には、政治社会文化を個人の可能性実現を助長するものへと改めていくことを論ずる。

 

 論ずるだけでなく、実際にリベラル的に目指すべきものを実現するよう行動せよと人々に促し、その為の行動の仕方を教示し、そう行動するように指導する。さらにそう行動することが意義あるものであると了解させ、そしてこの意義づけから、指導通りに行動できていない者は、不注意不勉強を指摘され、教示された通りに行動の目的を理解していない者は、理解力の低さや知力の不足と判定され、促された通りに行動していないものは、単に課題的義務の怠慢や普遍的価値への感受性の鈍感さが言われるだけでなく、良心の欠落、善性の欠如を謗られる。

 

 思想?。これが思想?。こんなものが思想?。リベラルな主張をする人たちに、私たちが実際に目にする特徴を挙げれば、偽善、虚栄、傲慢、尊大、強欲、奸詐、欺瞞である。彼らの主張に賛同の姿勢を見せない他人を蔑視し、許容せず、彼らの主張に反対する人を攻撃し、全人格的に非難する様子である。彼らの知識や理解力を見れば、何を取って見ても浅薄皮層で、狭隘で、根拠薄弱で、偏向的でありながら、様々な事柄に自分達の考えと価値観に適うよう修正的な解釈変更を施していく。そして全人格的な行為を他人に対して強硬に要求して、もし要求に従わねばまさしく人格的な否定を執拗に与えて、社会から偏執的に排除し続けていくという、恐るべき所業の数々もある。

 

 これらの事実を目を逸らさず見据えた上で、もしリベラリズムが思想であるとすれば、リベラリズムは悪しき思想であり、原理的なところで欠陥のある思想であり、人々に害をなす思想であると言わねばならない。

 

 気持ちを走らせず、落ち着いて考察しよう。奇妙な特徴に、リベラリズムそのものには、思想展開の出発点や源泉となる哲学者や思想家が見出されない。リベラリズムには、プラトンアリストテレスデカルトやカントに相当する者が居ないのである。リベラルな著述家、評論家、何らかの専門分野の研究者、そうした姿でならばいくらでも見出せるであろうが、リベラリズムを原理や出発点から立ち戻り考え直そうとするとき、参照とも手引きともなる哲学者や思想家は一人も居ないのである.

 

 だからまた、リベラリズムだけを体系的に自律な理論とし、他と区別される独立した思想とした者が居ないことと同様に、プラトンの対話篇のいずれか、アリストテレス形而上学や自然学、トマスの神学大全デカルト方法序説省察、カントの純粋理性批判、こうしたテキストに相当するものは、リベラリズムには存在していない。

 

 リベラリズムの文献をまとめようとすれば、なるほど確かに、リベラリズムをテーマにした著作などを含めて、極めて膨大なものとなろう。しかし、リベラリズム自体を思想的に構築したものという条件に当て嵌まるものはものはないが、リベラリズムに取って基本的な価値や主張を含んだもので、それが最初に言及されたものという条件ならば、かなり限定することができる。ところでしかし、そのどれもが別の目的や志向の為に書かれたものの中から、リベラルなと呼べる一節や字句に着目して文献として扱えるようになるだけなのである。

 

 この一番の例は、人権宣言のあの有名な文句である。これは政治のために記されたもので、リベラリズムの為に書かれたものではない。日本人には、福沢諭吉学問のすすめの、あの冒頭の一文を例に挙げられようか。

 

 どちらもリベラリズムのことを、根本的にか、総体的にか考え直そうとして、人権宣言や学問のすすめの全テキストを読み返しても、その目的は成功しない。どちらも別のことを目指し、主題としているテキストだからである。このことは、他の幾つも同様の例を挙げられるが、個別テーマ的な事例を見て終わりにすると、寛容というテーマに関心が向けられて、ヴォルテールの寛容論に注意が向けられたことがある。ところで寛容論を全編注意深く読み込んだとしても、リベラリズム自体の捉え直しに働くような読解は生じない。得られるのはせいぜい、リベラルなことを言うのに、その中の一説、一句を断章取義的に用いることぐらいであろう。

 

 リベラリズムが出現した十九世紀以降を見渡すと、リベラリズムの発展が一定の人々に連続的に担われていたり、継承的に掘り下げられたりした現象を見出すことはできない。そこにあるのは、リベラルなと呼べる性格を帯びた主張が、あちらこちらの様々なところから続々と現れる歴史である。それらは確かに内容的に類似するか、関係するかしてはいる。しかしこの様々な政治的、社会的地位、多様な職業、専門を背景とする主張者たちは、そのより根本的な思想や、彼ら各人の社会的、あるいは政治的活動や地位やに着目すると、全く共通していないのである。

 

 こうした多様な背景の中で、宗教的信仰と政治的信条に特に着目すれば、リベラルな主張には類似や共通性が見られるが、しかし信仰や信条に於いては大きく異なるか、強く対立するかしているケースが無数に見出すことができる。他にも文化、芸術的な事柄に関する考えに着目しても同様のことが見られる。このことが強く示唆しているのは、リベラリズムとは、一人の全人格に於いて、彼と統一的な思想として持たれるものではない、ということである。

 

 ごく簡単にだが、以上によって、リベラリズムが思想として扱われるものでなく、何か別のものであることが述べられたことにする。続いては、ではどんなものして扱うべきかを記そう。続く