日本リベラリズムによるリベラル的人格と世俗的人格との二重性 二

 リベラル的人格と世俗的人格との二重性は、人の生活や行動の多くの場面にあって、明瞭に併存的に存すると覚知されないでいる。それらは識別困難な仕方で相互に融合し、重なり合っていて、自己認識上あたかも統一的なものの如くに思われている。そうして、時にリベラル的なものが主導的、時に世俗的なものが主導的であったりする。あるいは一つの事柄について、二つの人格からの判断や評価づけが混じり合って下され、しかもその一つの事柄について、相反する意味付け、時には矛盾する意味付けが、二つの人格から与えられることもある。

 

 言わば日本人の多くが、そのような仕方で、常に絶えず揺れ動き、動揺しているのであるが、しかし同時に、日本人の多くは、それに慣れてしまっていて、そのようなあり方をするのが人の心だと誤った理解で受け止めて生きている。

 

 さてこの二重性は、誤って統一的なものとみなされている時、それぞれ次のような差異を与えられている。すなわち、リベラル的なものは自己の思想や教養面であり、世俗的なものは心情的、常識通念的なものとされる。ここから一般的に、リベラル的なものは知的に上位のものであり、世俗的なものは下位のものとされる。

 

 ところでこうした差異は本質的なものでもなく、根拠のあるものでもない。しかも併存的、共存的な二重物であるから、上下が逆転した関係にも置かれる。すなわち、世俗的なものこそ真実で、本当のものであり、リベラル的なものは空虚で、虚構的なものとされたり、よく言われるところでは本音と建前といった差異を与えられもする。そして建前と本音という差異に類似して、心の外面と内面、言葉に出来るものと出来ないものといった区別を与えられることもある。

 

 このような二重の人格が真実に統一的なものでないことから、つまりこの人格に相関する世界を統一的なものと意識できていないから、あるいは同じことだが、統一的で総合的なものを構成できる地平を有していないから、日本人にとって世界は部分的で、断片的で、非統一的なものとなり、自らの行為や言動、認識や判断も、常に限定された局面に成立するだけのものとなっている。

 

 日本人の多くは、日本リベラリズムによる悪しき精神構成によって、アクチュアルに体験するものは、常に部分的で、断片的であり、認識も判断も限定された局面でのものでしかなくなっているが、これはまた、普遍的述語の使用や普遍的判断というものが、正しく用い得ないということでもある。

 

 これの良い実例も、やはりまた最高教説の平和主義に連関するところに見出すことができる。戦争を引き起こす原因や経緯なるもので、日本リベラリズムが言うところの様々な悪しきものは、日本人について語られるが、他の国の人についてそれが語られることはほとんどない。戦争への反省もまた、日本人に対して言われるが、他の国の人に言われることはない。軍備が他国に懸念と不信を生じさせ、平和とは逆の方向への原因となるということも、日本国には言われるが、軍備を増強している他国についてはちっとも語られない。

 

 あるいはこんな実例もある。故安倍首相の政治について、独裁としばしば言われたが、共産党が非民主的集中により独裁的に指導されている団体であることは、ほとんど意識に昇らない。その他にも、忖度、癒着、権益確保など、日本リベラリズムからは悪しき行動とされるものも、日本政府や自民党政治家について常に言われるが、それらが日本の各種の社会団体に共通に見られることであるのに、それらが指摘されることはほとんどない。

 

 これらのように概念それ自体では、日本リベラリズムの理解では普遍的なものなのかもしれないが、その概念の適用を見れば、その普遍性に従ったものでは全然ないものが、日本リベラリズムの主張に無数に見出される。こうした判断方法が可能であるのは、普遍的な概念を用いて、統一的で総体的な世界ではなくして、ある限定された局面で、そこに出現している限りのものという意味で特定の事柄に対して、日本リベラリズムは認識や判断を行っているからである。

 

 しかしながら、ここまで概念と言ってみたり、認識や判断と言ってみたり、普遍的な述語づけと言ってみたりしたが、日本リベラリズムの主張にあっては、またリベラル的人格にあっては、これらは真実のところ、知的に保持されているもの、知的に適用されるもの、あるいは精神の作用の内容といったものではなく、情念あるいは感情に属しているものである。

 

 日本リベラリズム教説の言説手法では、リベラル的な理念を人に抱かせるにあたって、感情の喚起が重要な役割を果たしている。しかし、日本リベラリズムの言説が人に生じさせるものは、畢竟、感情すなわち情念に属するものでしかない。日本リベラリズムの言説では、理念の理解あるいは概念内容の把握は行われずに、対象として指定された特定の事柄について、喚起された情念が説得の相手に抱かれることが目指されていて、またそれがそれによって実現される全てなのである。

 

 情念は、同一人の内に於いて変わりやすく、不安定であるが、しかもかつ人間同士を対立的にさせもする。日本リベラリズムに止まらず、およそリベラリズムは、社会に対立を惹起するものであるのは、今日よく知られるところであり、これはこれで大きな問題であるが、今ここでは同一人の中での問題に注視しよう。

 

 一人の精神における問題は、私が最大の関心を寄せ、その解決をとても重大なことと思い、その解消を図り、かつ解消の先に人が手に入れるものを、多くの人々と共にしたいと欲している問題は、情念に振り回されない精神の営み、知性とも悟性とも、理性の導きに従うこととも言われるであろう精神の営みを獲得することであり、かつまた、意識の内容を情念によって混乱させてばかりにしないで、理想、理念、概念、表象などを思考が扱うに足るものとして捉えて、およそあらゆる事柄に関する思惟を行えるようになることである。

 

 これらのことを日を改め、別の表題のもとに記していこう。