リベラリズムについて 二

 ではリベラリズムとは何か?。リベラリズムを思想としてでなく扱うとすれば、どんなものと見れば良いのだろうか?。

 

 リベラリズムは、社会現象の類として、その観察と考察をすべきものである。社会現象とは、社会風潮とか、社会的流行といった、社会の状況に基づいて出現するものであり、その時点の特定の状況が土台とも起源ともなって、現象としての発生、成長、そして衰退が規定されるものである。

 

 リベラリズムが本質的には社会現象であることは、幾つかの点から示すことができる。まずリベラリズムが出現したのは十九世紀のヨーロッパであるが、この時期の社会変化がリベラリズムの発生と展開に大きく関わっている。と言うのも、その時期から欧州は政治的、経済的に大きく変動していき、政治的新制度の確立、経済的な、具体的には産業や職業の点で、新展開をしていくことになる。

 

 この変化が、例えば経済面で言えば、生活を支えるに足る新しい職業の出現が、リベラルらしい言葉で言い表すところのいわゆる職業選択の自由、あるいは新しい生き方の選択が当時の人々の前に出現することになったのである。

 

 この新しい選択肢の存在、その選択の結果得られる新しい生活、これらが当時の人々は自ら選び取るもの、自ら欲してそうすることと意識され、意味付けられた。この意識と意味づけは、やがて自由意志とか主体性とか立派なもののごとくに言われることになる。もちろん最初からそんな厳かな称号を与えられていなくとも、この選び取りを否定的に評価したり、その欲求を押さえつけたりすることは、極めて明瞭に、自己の考えを否定すること、自己の希望を押しつぶすこと、つまりは自己の否定として受け取られていた。

 

 ここはいささか慎重に、あるいは念入りに、二つの要素が絡み合っていく様子を見ておきたい。すなわち自己の肯定と、自己の外から為される否定との二つの契機である。肯定されるのは、自己の欲求、意志、希望や願望、その他の自己の内にあるものを実現しようとする様々な志向である。ところでこれは単なる是認ではない。その是認は自らの志向とその対象とが価値を持つことの是認、自己の行なった選択が正当なものであるとする是認である。すなわち自己の志向は尊重されるべきものなのである。それで外から与えられる否定は、尊重すべき価値を否定すること、そうした考え方や態度であるという意味を持つことになる。

 

 二つの契機は、言い換えれば、価値あるものとそれの否定、尊重すべきものとそれの否定、意味あるものとそれの否定、すなわちその意味の無理解や無知、という性格を帯びていく。そうして自己の是認は、自己が自己においてのみ、つまり自分一人だけがそれを是認しているというものではなくして、尊重すべきものを尊重する人ならば、意味や意義を理解する人ならば、それらを知っている人ならば誰もが是認、肯定するはずのもの、そうすべきものと意味付けられていく。

 

 新しい生活の様々な選択肢の出現は、その選択肢のどれかを選び望む動きと、これを否定する動きとの二つの絡み合いから、一方に志望することの正当性、選択対象となるもの自体の意義、これらがそのまま尊重されるべきだとの意味付け、そして他方にこれらを否定することが、ただ否定するというだけで、非合理的、非知性的、無知、迷妄など、およそ価値あるものを理解できない精神的、知的欠落と見做されるという考え方を出現させもしたのである。

 

 リベラリズムの議論や主張は、いずれのものにあっても、根幹に今上に述べたものを有しているか、あるいはそれを洗練的に展開構築させたかしたものを有している。当然、それ以上に付加されるものもあるが、コアとなるのは上のことどもである。

 

 同じことを少し具体的な様子を伴わせて、より鮮明にしておこう。例えば都市での新生活への憧れが持たれたとする、この憧れとそれによる判断、行動は、すべて尊ばれねばならない、そうしないのは憧れている人を人格的に否定することであり、さらには憧憬の対象たる新生活のスタイル自体の意義について無知、無理解なのである。この無知無理解の原因に、旧来の価値観に縛られているといったものが指摘されることもある。

 

 また例えば、新様式、新技法の芸術創作を目指したとする、この意欲とそれのための創作活動は、すべてその限り尊ばれねばならない、そうしないのは新しき芸術家を否定することであり、新しい芸術の意義の無理解、感受性の欠如なのである。この感受性の欠落の理由として、狭隘な芸術観に囚われているといった指摘がされることもある。

 

 最後に例えば、社会の何かしらの変革が志向されたとする、この希求とそれに関係する行動は、全て尊ばれねばならない、そうしないのは新しい社会理念の否定であり、その理念の普遍的価値の無理解なのである。そしてここでも、この無理解を批判して、盲目的な保守性、差別感情といった視点から非難されることがある。またもちろんここでも、変革者、改革者自身も、それ自体つまり変革を目指しているということだけで、否定されるべきでない何者かと(全く馬鹿馬鹿しいことに)見做されることもある。

 

 この一文の最初に、リベラリズムは社会現象の類の事象であると記した。そう捉える理由の一端は、ここまで述べた選択肢の出現自体が社会現象であり、新しい選択肢に対してどう行動するか、どう考えるか、そしてどう意義づけるか、あるいは否定する行動、態度、考え方をどう再否定して退けていくか、これら全てがその時点の社会の情勢や文化、思想、価値観などに規定されているからである。

 

 都市が経済的に拡大し、新しい都市生活、都市的職業が出現したから、それらが選択肢となり、政治的新制度などでこれまで閉ざされていた人々に政治的進出が可能となって、それらが選択肢となり、芸術の新趣向への(潜在的、可能的)需要が生まれたから、それを欲する(潜在的、可能的)顧客への新芸術が可能となり、そしてそれらが選択の一つになりと、このように社会が変化したから、その変化に基づいて出現したのが、今日所謂リベラリズムなるものだったからである。

 

 少し補足して言えば、後にリベラリズムと呼ばれることになる、個人が自らの可能性に基づき選び欲するもの、その実現のための行動や考え方を尊重し、またかつそこで欲せられ、目指される事柄自体を意義あり価値ありものとし、これらいずれかを否定したり抑圧したり妨げたりすることを、様々な視点、概念、理論、思想などで非難、批判、攻撃、論駁していくものとなるのである。続く