日本リベラリズムによるリベラル的人格と世俗的人格との二重性 一

 日本リベラリズムは、リベラリズムの主張や行動をする人格と、社会によって育まれ、形成された人格との二重性を、日本人に生じさせている。この二重の人格は互いに分離しているが、しかし時には相互に行き来するものとなっている。またこの二重性は、思想的な人格の統一性を全く理解させず、真の意味での哲学的反省を生じさせない。しかもそれ以上に問題であるのは、知的な認識それ自体、またその対象となるものの存立性格や、人間精神が如何にしてそれらを獲得、所持するようになるのか、これらの理解を歪めて、これらを見失わせる原因となっていることである。

 

 この二重性がどんな様態のものかは、作家の島田雅彦が最も良い実例を提供してくれた。彼は故安倍首相がテロの犠牲になったことについて、殺されて当然であったという言い方で、リベラリストの多く集まった場所で発言した。それが集会外部に知られて、人の死を悼む感情の欠落を指摘された時、この発言を訂正することもなく、直接の弁解をするでもなく、日本リベラリズムの視点からであるが、別の事柄についての問題を述べて発言の説明に替えて終始した。

 

 この人物の実例と同様に、このテロ事件に対する日本リベラリズムに従う人たちの態度と発言も、およそ人の死に対する自然な哀悼感情を表明することなく、無慈悲で無情なものであった。私自身の周囲でも、ごく普通の人が同じ発言と態度を示したことを、直接に目にもした。

 

 ところで、私が直接に接した人もあの作家も、私は強く信じて疑いもしないが、日本リベラリズムの教説がそう考えよと指示されていないところでは、つまりごく普通の出来事として誰かの死に接するならば、誰もが本然より持ち合わせる同情や哀悼感を抱くであろうし、そも人の殺害をどんな理由からでも是とすることはないであろう。

 

 すなわちこのように、リベラリズムに従った言動をする人格と、日本社会に育まれ形成された人格とが、同時に持たれているのが、私の二重性と呼ぶところのものなのである。この二重の人格を、それぞれリベラル的人格と世俗的人格と呼ぶことにする。

 

 この人格の二重性は、知るところを自らの身をもって行うものとする、真の意味での思想的人格の統一性と、根本的にも本質的にも異なるものであり、むしろ思想を抱く精神と遥かに隔たったところにある精神のあり方である。また理念や理想に導かれる思惟を全く知らない精神であり、事柄の本質を認識し、かかる普遍的な本質において理解することを知らない、いやそれが行えない精神である。

 

 この二重性のうち、世俗的人格のみであるならば、単なる思惟以前、理解力を働かせることをまだ知らない、本質を捉えて、そこでこそ営まれる知性をまだ有さない、かような人のあり方にあると言うこともでき、その人に必要なのは、思惟することへと導き、本質の把握に勉めるよう促し、人間精神として本来有するところの知性の働きに赴かせることであると言うこともできるのであるが、日本リベラリズムによる人格の二重性は、この導き、促し、そして知性への転向をそも不可能としてしまうものとなっている。

 

 このことの一端を示すには、まずは人格の二重性が生じた原因を見るのが示唆的であろう。日本リベラリズムは、敗戦後の日本を支配した占領軍司令部が、日本の政治・社会を根本より改革するために導入したものであるが、これを日本の政治・社会の各層の人たちは、占領軍支配下でも戦前と変わらぬ地位、あるいはせめて大きく減じない地位に居続けるために、あるいはむしろその体制内で地位上昇や地位獲得を図らんとして受容した。そしてこのような態度で受容せんと判断した者たちは、言うまでもなく当然に、その時点で一定の教育、教養、学識、経験、そしてそれらを含んだ人格的な形成を終えた者たちであった。

 

 ここにすでに二重的人格の端緒があるが、本格的に二重性が形成されていくのには、日本リベラリズムの言説手法と、日本リベラリズムの教説的性格とが関わってくる。この言説手法は、人の情念を喚起する、あるいは情念的感情を煽動することに始まり、そこへその情念や感情に寄り添い、それを方向づける善理念を結び合わせ、そしてかかる善理念の意義と価値とでもって、それへの志向者であること自体を、そしてそれのみを意義付け、正当化することを行うものである。また日本リベラリズムはこうした言説手法により、ある事柄に対して、どのように考えるか、どのように判断するか、どのように評価するかを、更にまたそれに対してどう行動するかをも、全て指定する教説でもある。

 

 それであるが故に、日本リベラリズムの教説を人が保持するに至るならば、ある事柄についての判断も、それに対して行うべきことも、きちんと弁えた何者かとなっていると思えてしまうのである。それは教育を通じて生じることもあれば、社会に広く有される日本リベラリズム教説に触れることによって生じることもある。どちらにせよ、日本社会にはその機会が豊富に存在し、それに縁のないようにすることの方が困難であるぐらいであり、日本人の多くは日本リベラリズム教説による人格を所持することになるのである。

 

 何者かとなっていると自分では思っている様子を、もう少し具体的に描き出しておこう。やはり最初に挙げるべきは、日本リベラリズムの平和主義によるものであろう。その教説通りに平和への想いを抱いていれば、日本人は自分は何者か、この場合は、平和についてよく考えていて、平和について強く望んでいて、平和について・・・とにかく平和というもの自体のことを、その事柄に相応しく深く根底より考えていなくても、平和を思う人となり、それについてどう述べるべきか、またどう行動すべきかも、よく弁えた何者かとなっていると思っているし、そう出来ていない人を見れば、そうなれていないと判定することも出来る。

 

 他にも日本リベラリズムが持ち出す、人権、民主主義、差別、ヘイト等々、どれもが教説が言う通りを覚えて、教説通りに論じ、教説通りに行動するならば、それらについて理解し、弁えた何者かと自らを思っているし、そう出来ていない人を判定することも出来る。そして平和からその他のことまで、それが話題となれば、どのように語り、論じ、何かしらの話題に際して、それに即しての判断や批評、感想やそこに持つべき感情まで、何もかも教説の教えるワンセット通りの言動をすることができる。つまり、そのような人として自分をその場に立ち現わすことが出来るのである。すなわちまた、その立ち現れた自分を、一人のそのような人格として意識するのである。

 

 だがこの人格とは別に、日本人の誰もが日本社会の中で形成された世俗的人格を有している。上の例で言えば、日本リベラリストの多く集まった場では、自民党政治批判や自民党政治家批判を行い、日本リベラリストが独裁政治家と非難した政治家に対して、殺されても当然だと平気で口にしながら、他方、日本リベラリズム的な言動が求められない日常の場では、人の死を悼む気持ちを持つし、殺人など決して許されないことと考えている。世俗的人格をきっちりと持ち、そのように自分を立ち現しているのである。世俗的人格において自己を意識し、世俗的人格によって日本社会の中を生きているのである。

 

 世俗的人格によって社会を生きている様子を明瞭に観察できる、これも最近見られた事例を挙げれば、リベラルな社会学者として著名な上野千鶴子が、異性と結婚せずに一人で生きることを、リベラルな考えを推し進めて至るべきことの一つとして論じ、そのような生き方を人に説き、また多くの人々がそれに賛同し、その考え方を称賛し、その教えに倣う者を生み出したが、そのように説く上野千鶴子本人は、あるリベラルな男性学者と長くパートナーとしての時間を過ごし、入籍も行い、高齢で夫が亡くなった直後に、配偶者たる妻として遺産相続も行っていたことが、広く知られることになった。

 

 上野千鶴子はこのように、一人で生きることが真の生き方であると説きながら、それとは全く別に、結婚をして二人で生きる道を何の衒いもなく選び、時間もエネルギーも二人で過ごすことに費やして生き、二人すなわち夫婦という関係がもたらすもの全てを、そこにある喜びや幸せのみならず財産も、その手に入るもの全てを我が物として生きている。

 

 さて人格の二重性とは、このような併存のことであるが、世俗的人格の側に注意を向けるならば知られてくるのは、リベラルな言動によって現れる人格は、世俗的人格に対して何らの関係も持たず、前者が後者を規定したり、制限したり、指導したりすることもなく、相互に無関係に共存しているということが、極めて明瞭に見て取られるのである。更に、世俗的人格としての欲求、感情などのあり方は、まさしく世俗通りのあり方をしていることも、容易にこの実例には看取される。

 

 そして世俗的人格が、リベラル的人格と無関係に併存する二重的なものであることは、上野千鶴子に例外的なことでなく、日本リベラリズムの通常普遍の人格形態である。何故なら、上野千鶴子の生き方が広く知られた時、信奉者や賛同者、またリベラルな学者として評価してきた者たちから、更には高くは学者として評価していなくとも、あるいはリベラルな主張に共感しないできた者たちからも、世間の反応としては、さしたる非難も批判も生じず、どの方面からも聞こえてきたのは、彼女も女性の幸せを生きることができて良かったです、という感じの受け止めだったのである。

 

 つまり、日本人の誰もが、日本リベラリズムによる人格とは別に、世俗的人格としてのあり方があると知っているし、そう生きているのであり、しかも両者は無関係で、相互に規律も規定もすることなく、むしろ世俗的人格に従って生きることを、もしかしたらリベラル的人格よりも高く評価していて、より強くそれを求めて、そしてそれこそが真実のあり方である、それが人間本来の生き方であると考えているのである。

 

 と言うのも、世俗的人格は、日本人の通常自然の、日本社会の中での生き方である。そこで形成された、道徳、振る舞い、価値観、その他様々な考え方が、そのまま日本人各人に所持されているものである。この世俗的人格は、社会の中での行動、他の人々の接し方など、包括して社会的行動を行う人格である。そしてこの世俗的人格は、思想的あるいは哲学的な原理的、批判的検討を行う以前に、自然素朴に形成され、所持されたものである。

 

 それ故に、そのあり方を構成した様々な要素、契機などを振り返って見ることはなく、その在り方からする振る舞いや行動といった現れについても、その是非、その正否、その意義への疑問が付されることもない。それは社会という観点を忘れずに言うならば、日本人が自然本然なものとするところのものなのであり、日本人ならば誰もが、このあり方に就いて、それが人間の普通のあり方、本当のあり方、それが自然なあり方であると判断し、認識し、そう語るところのものである。

 

 このあり方が許し、認める言動は、そのままに誰もが許し、認めるし、逆にこのあり方が許さず、是認しない言動は、そのままに誰もが許さず、是認を与えない。繰り返すが、その理由や根拠は、殊更に改めて検討され、明確に理解されているわけではない。それは言わば、社会という自然が、その中に生きる人にもたらし、その人に付与する第二の自然なのである。

 

 この是認や承認は、また是認され承認されるものは、自然的に正当で、自然的に当然で、とにかく自然的で、疑いなど起きることもないものであって、もしその逆に、それの価値を否定し、貶め、拒絶することは不自然であり、そうすることは人の自然を知らず、それに背くところある愚かさと見なされる。そうする人はよくて笑われるが、もし何かしら明瞭に否定的な言動をすれば多くの場合は顰蹙を買い、強く批判すれば持て余され、悪くすれば憎まれもする。

 

 そして日本リベラリズムにあっては、リベラルな人格と、この世俗的人格による是認とは、何の支障もなく同居し、併存している。しかも時に何か或る事柄にあっては、いや大概の事柄に対して、世俗的人格はリベラルな人格よりも強い是認と承認を与えている。世俗的人格における是認や承認に向って、それを批判し、疑問に付し、制限し、規制するものは、その人格の中にもまた社会にも、どこにも存在しないし、意識されないし、見出されることも無いからである。

 

 そして女の幸せを目指して生き、それを獲得することに、いったい何の問題があると言うのか、そも問題視する方が遥かにおかしい、と人々は思うのである。ここに何の違和感もなく。よしやたとえ結婚せずに一人で生きることが、人として幸せであり、本来の姿であり、意義あるあり方であると日本リベラリズムが教えていたとしても、また自らそんな教説を唱えていたとしても、何の違和感も不自然さもおかしさも感じない。彼女自身も、人々も、そも問題視する方が遥かにおかしい、と強く疑いなくそう思っているのである。続く