日本リベラリズムによる人間精神への害悪の一例

 日本リベラリズムは、広く受け入れられた思想であるならば、どれもが本来なら経るべき段階を辿ることなく、一挙に権威と意義とを有する思想信条として日本社会の最上部に採用され、上位から下位への社会(的支配)のシステムを通じて、社会全体に普及させられた教説である。更に教育機関によって日本人が幼少期から青年期にまで、長期に教授される教説である。そこでは教育の効果を最大限に挙げるため、批判を禁じた固定的で一方的な教授が行われてきた。かくして社会的権威ある上位性と固定的ドグマ性という、二つの強力な支配性を有する教説となって、日本リベラリズムは真の意味での思想の自由を日本人の精神から奪ってきた。

 

 これを奪うのみならず、日本リベラリズム教説は日本人の精神の知的営みに、著しい害悪を生じさせている。それは知性という重要な性格を全く理解させず、理念や理想を中身のないただの空虚な美言とし、人間本性から自ずと生まれる善意という人の心の原動力を、あらぬ方向にのみ歪めて導くものとなっている。しかも、日本リベラリズム教説に従う人にあって、理解力の高さを虚しく誇らせ、普遍的理念の思惟への統制力を無制限に行使し、善意のもとに自らも無慈悲になれば、他にも無慈悲、無関心、無配慮となっている。

 

 この様子を、日本リベラリズムの最高教説の一つ、平和主義を例にして見てみよう。日本リベラリズムの平和主義は、昭和憲法の九条の戦争放棄の条文に基づいて展開される教説である。ところでこれは戦勝国である米国が、軍事的優位性を持続させることを欲したものに過ぎないが、日本リベラリズムはこの意図に触れずに、平和思想の外観で日本人に受容させてきた。

 

 それによって日本人の精神状態に生じていることを、教説として説かれる様子と合わせ見ながら分析していこう。

 

 教説として説かれる様子を概観するならば、それはまず悲惨な体験を想起させ、戦争への忌避感を強く抱かせたところに、戦争が無い状態としての平和へと方向づけられた志向を持たせる。ここで平和の意義を理念的に開陳して、平和への希求を意義あるものとする。これにより方向づけられた志向自体にも正当性が付与される。そして日本リベラリズムはどう行動するか、どう判断するかも指示し特定し、その通りにすることで日本人は平和主義者となるのである。

 

 さてこれを人の精神の中でのものとして見返すならば、そこには忌避感という原初的情念がまず発生する。次にこの忌避感は戦争という事柄に触発されたものであって、それによりその事柄へと方向づけられた志向となる。更にこの方向づけられた志向は、平和という理念の所持と合わさっていく。平和の理念の教示にあっては、それの理念としての正当性が説かれるのであるが、この説示の効果は、理念の理解の形成にあるのではなく、方向づけられた志向の正当化にある。それはどう行動するか、どう判断するかを促し、支えるものを人に形成せんとするからであり、各人が自己の志向が正当なものであると意識することほど、そのような土台となるものはないからである。

 

 なるべく簡素にこれを整理するならば、まず原初的情念があり、次にそれへの対象付与による方向づけが生じ、最後にこの方向づけを何かしらの理念を添えて正当化し、最後に正当な志向を有しているとする自己認識を持つ者へと出来上がっていくのである。

 

 またこれを一般的な姿で述べ直せば、人が何かしらの情念を抱くか、あるいはそれが喚起されたところに、その情念に応じる対象が提示され、その対象に向かう志向を浮き上がらせる。次に、この対象への志向を、何らかの理念と結びつけて、その理念の有する意義を以て方向づけられた志向を意義づけ、それに正当性を付与する。最後に、方向づけられ、正当化された志向が、いわば自覚されたものなることで、日本リベラリズム主義者となるわけである。

 

 さてここで注意して見誤ってならないことが幾つもある。最も重要な点は、この精神にあっては、理念自体の理解を深めていく動きがないことである。理念自体の理解も解明も根拠づけも、むしろ必要でなくて、必要なものはただ一つ、それが価値あるものであり、意義あるものであり、それを志向の対象とすることで、志向自体が正当化される、ということだけである。

 

 日本リベラリズムの平和主義を見れば明らかなように、そこでは平和とは何かは、いかにしてそれを実現させるかといった点は、全く深められることも、解明されることもなく、ただ平和への想いは大切であり、それを持たねばならないということだけが強く、堅牢に人々には了解されている。

 

 日本リベラリズムが日本人に教説として説かれて以来、もう八十年にもなるが、この間に世界では戦争が絶えず行われてきた。これに対して日本リベラリズムが行ったことと言えば、戦争はいけない、平和は大切だと説くことのみであり、個々の戦争がどのようにして生じたのか、その原因解明を通じて、どのように戦争の終結をもたらすかを、真の意味で追究したものは全く存在しない。どれもが平和は大切だという点を強調するに結局は終始して、平和への想いは意義あることだと確認するばかりなのである。

 

 ここから日本人の日本リベラリズムにより形成された精神状態の、また一つ重要な性格が明らかになる。すなわち日本リベラリズムの教説が目指すのは、何かしらの理念、それは常に何かしらの善理念であるが、それへの志向を有することは大切で意義があり、それへの志向者であることは意義あるものであり、正当なあり方であると強く信じさせることであって、それが日本人の精神に形成しようとするものは、理念の理解ではなくして、それへの志向の正当性の自覚、意義あるものだとの意識なのである。

 

 この区別、差異を繰り返して述べよう。ここでは善理念の理解は課題とはならない。それへの志向にあって、善理念の究明へと動機づけしていくことや、善理念の明瞭な把握へと導く方法を反省したり、考察することへと促されることはない。もっぱら行われるのは、特定の善理念が意義あるものであること、その意義や価値の強調的な提示であり、しかも何故意義あるものなのか、価値あるものなのか、その根拠や理由を与えることはせずに、疑うべからざる意義や価値であると説くばかりなのである。(そうでなければ、日本リベラリズムの言説は、疑うことのおかしさを指摘するのに言葉を費やす。)

 

 正しい志向であると納得させるのと強く相関しているのが、志向に先立って、志向の向かうものとなるべき理念への情念を喚起させる語り方である。例えば日本リベラリズムの平和主義において、平和への希求、平和への想いは、重厚で豊富な、悲惨な戦争体験のエピソードを大量に、また深刻な雰囲気で聞かせるのが常である。この夥しい量の戦争体験のエピソードを聞かせることは、情念喚起の手法と言うべきものであって、また手法の最初の目的も情念喚起にある。

 

 この手法の次の目的とするのは、意義あるものとして提示される理念、例えば平和の理念に、喚起された情念がそこへ向かうように、提示するに先んじてあらかじめ方位づけることにある。体験談的エピソードの数々が情感込めて語られ喚起された情念は、そこに含まれている解消されない、重苦しく悩ませられ、思い乱れる気持ちを、ちょうどよく解消し、悩み軽くさせる働きをする理念的なものを付与するよう語られるのである。

 

 理念は理解の対象ではない。情念に伴った様々な感情に寄り添い、その感情の解消に役立つだけのものなのである。その感情を問題意識と思わせて、まるで解決策や目指すべきものと理解されるもののように、ピッタリと当てはまる感情の解消物として提示されるのが、日本リベラリズムの教説が個々の問題で提示する理念なのである。それは喚起された情念と、緊密に結合するものであり、あるいは混合するものであり、その結合や混合によって精神の営みそのものを歪めていく。

 

 日本リベラリズムの教説の支配下、精神の知性を働かせているつもりで人は、注意力の冷静な行使から知的関心が生じる代わりに、喚起された情念の強さに心が動かされ、知的関心に導かれた知性の眼差しが把握した対象のつもりで、情念と共に惹起されてくる感情が望ましいと思うものへと心を向けさせ、自らの思惟によって何かしらの判断へと至る代わりに、解決の意義あるとされる理念を提示されるままに受納し、そこで価値づけられたままに受容し、かくして問題を把握し終えたと思い誤る。のみならず、意義あることに向き合い、価値あることに向けて主体的な自ら自身が、意義と価値あるあり方をしていると思うのである。

 

 情念との結合で満足し、この混合物に精神が振り回されている人にあって、見落とさないよう明記せねばならないのは、理念あるいはおよそ概念により思惟がどのように導かれていくか、それらでもって如何に思考が営まれていくか、このことを見出すよう精神へ哲学的反省が行われることは全くないし、その動機も存在しないし、当然、これらの営み、すなわち哲学的営みの理解も知識も存しないと言うことである。そしてこれが、日本リベラリズム教説が人間精神に引き起こしている害悪の最たるものであると私は思うのである。