リベラリズムについて 四

 リベラリズムは思想ではなく、特定の社会状況下で特定の目的獲得を目指す行動であり、包括して一般的にも社会現象に類比して捉えるべきものであって、これらの視点からリベラリズムの言論性格、言説内容(の意図、構成手法、効果など)は理解されるべきである。

 

 ところで日本で見られるリベラリズムには、他の地域でのリベラリズムとは全く異なった、特異な性格がある。それは日本へのリベラリズムの導入が、極めて特殊な状況と意図とによって行われたからである。すなわちリベラリズムは、第二次世界大戦に敗戦し、米国主導の連合軍に占領されていた日本に、占領下での政治、社会改革の一環として導入されたものだった。この特異な導入と、それへの日本での対応、受容の仕方とが相俟って、リベラリズムは日本リベラリズムと他と区別して明記すべき、特殊で異様なものへと変質して今日に至っている。

 

 占領軍司令部の命令で、日本の政治、経済、社会団体、文化、学術など社会各領域の指導的地位にある者、影響力ある者は、すべて占領軍の方針であるリベラリズムに従う者たちへと入れ替えられた。これによって、リベラリズムは一挙に日本での指導的な立場のみならず、日本の人々に対する権能的な力を手に入れた。戦後改革で占拠的に占められた政治、社会での上位的、指導的地位は、そのまま日本リベラリズムに従う者たちに継承され、確保されてきている。

 

 そして今日まで、日本リベラリズムは社会的権能と地位、およびそれに伴う豊かさを手にいれる、有力な手段である。日本リベラリズムは、それを尊重する態度を示すだけで、一定の社会的評価と地位を約束する。日本リベラリズムに即する姿勢は、社会的上昇を目指す者たちには、上位者から地位を受け渡される資格の一つとなっている。

 

 さらに合わせてみるべきは、日本人の学校教育にもリベラリズムが導入されたことである。日本リベラリズムは、精神に対しては教条、教説となったのである。リベラルリズムとして教えられる通りを守るように育てられ、原理的価値への真に必要な批判や、適切に加えられるべき検討は許されず、日本リベラリズムは物事の考え方の堅牢不変の枠組となり、そこに縛られてしまうものとなっているのである。これにより、本来の意味通りの思想的営みが日本では致命的に損なわれた。しかも、私にとって痛切に残念に思うのは、哲学的反省への道が大きく塞がれてしまっていることである。

 

 リベラルな主張の言論構成は、様々な思想での善理念と、それを言い表す表現手法とを、彼らの利益のために駆使するものである。またリベラルな主張は、教育によってと共に、マスコミなどを通じて、人々に既知のものとして受け止められている。それにより人々は普遍的理念による現実理解に、ある程度通じていると自らを思っている。

 

 そしてリベラルな主張を通じて彼らが理解していると思っている理念や価値が、現実には存在しないでいたり、その実現への途上にないのを見ると、その原因は他人にあると簡単に思ってしまうのである。彼らはそうして他人の怠慢と無関心への非難としての批判を行う。現実の不完全さを見ては、その非難はますます厳しく、激しいものとなる。この非難によってのみ、足りなければより強くした非難によってのみ、現実は彼らの思い描くところへ変化すると思っているのである。

 

 非難の強さの度合いこそ議論の帰趨を決定すると、このようにしか言論を考えられない背景は、リベラリズムが占領軍司令部によって、一挙に日本社会の上位的、指導的、そして権威的地位を与えられてしまい、本来ならば思想として認められるために、その思想を抱いた人に始まり、まずは彼の周囲の人々の間で、そしてやがて社会の多くの場所で考察、検討、納得、そして受容されながら、同時に洗練されていくという、それを経なければならない不可欠で必須な、思想を思想として成長させる過程を持たなかったからである。

 

 思想を人々と納得し合って深めていく道、人々と共に考えていく道を知らない日本リベラリズムの欠点、日本の人々をそこから逃れられなくしている日本リベラリズムの害悪は、また一つある。それは論究考察の主題、その手法、そしてその言語化にあって、アクチュアリティを重視することである。アクチュアルな問題を論じよ、と日本リベラリズムは求める。だがこの要求は、リベラリズムがその時点の社会状況で、個人の可能性という美名のもと、自己の利益を獲得することを目指すものだからこそ言われるものであって、それ以外に何らの理由もない。

 

 この要請に従うことで哲学や思想に、大きな利益が得られるわけではない。この要請はむしろ哲学的考察を不可能にするものである。何故なら、哲学的議論は普遍的で根源的なものに及ばねばならないのであって、それは個別的な姿だけでは捉えられないものだからである。普遍的で根源的なものへの理解どころか、それ以前に、そこへ精神の眼差しを向けること、いやそれ以前に、そこへの関心を持つこと自体が、日本リベラリズムによって日本の人々から奪われてしまっているのである。

 

 このことに繋がっていて、哲学的関心を持ち、哲学的事柄へ精神を向け、何かしら原理的なものから思索するにあたって障害となる、日本リベラリズムが日本の人々に植え付けたものがある。それはその時点で自分に備わっている知識・理解と、自然に生まれるとみなされる情念とから飛躍しないで、それらと何らの知的性格の差異のないところに、哲学や思想が見出されると誤解していることである。

 

 これらより言うべきことは、ただ一つである。私たちは日本リベラリズムから解き放たれ、精神の営みをそこから自由にしなければならない。私たちの哲学は、日本リベラリズムから訣別することによって始まるのである。