リベラリズムについて 三

 リベラリズムは個人の可能性を価値ある原理とする。この個人とは社会の中での個人であり、可能性とは個人が社会の中で生活し、活動し、それによって様々な地位や役割を得ていく可能性である。ところでこの地位や役割とは、人々への影響力、思想・精神上の指導性といったものだけでなく、すなわち単なる名誉や名声、評判や声価、敬意や尊敬だけではなく、実質的で物質的な獲得物、下品に言って金銭的に相応の利益がそこに必ず伴って得られるものであって、個人の可能性とはこれらが実現していく可能性である。

 

 個人の可能性が価値原理であるから、この可能性の実現を阻害したり、制限するものは否定的に評価される。価値や原理とするところを否定されるならば、その否定をそのまま是認して受容されはしないものだから。それでそこでは価値原理の否定を退け、それを誤りと指摘して、否定者への反論が行われることになるが、その場合リベラリズムの言説が常に有する特徴がある。それはこの反論が非難の意味での批判でしかないか、あるいは阻害したり制限しているものを現実から取り除くことを課題として設定した、具体的な修正を述べたものとしての批判となるのである。

 

 こうしたものを批判と呼ぶのは、リベラリズムの言論での習慣的用法に従ったからで、彼らはこうした言論を批判としばしば呼ぶ。実際、権力批判や政治批判と呼ばれる言説は、様々なリベラリズの主張の中で大きなグループの一つとなっているが、これら言説の内容を見るならば、権力的なものや政治によって生ずることがリベラリズムの価値とするところ、原理を否定するものであるのを非難し、そうした障害物、阻害物、あるいは制限や制約を取り除かれた姿へと、権力の性格や政治制度など修正、改革、変化させることを求めるものである。

 

 このようにリベラルな主張は、その実質において、非難か修正である。ところでそこで目指されているのは個人の可能性の実現であるから、これを加えて合わせて言い直すならば、リベラルな主張の実質は、主張者の利益の実現がそれによって得られることを図った非難と修正である。

 

 ところでリベラリズムの議論、論説、論評は、各種の思想、哲学の概念、理論、表現、言い回しを活用して組み立てられている。それによって思想的外観を得るし、自らを思想として偽装したりもしている。そのために正味、自己の利益の実現を目指しているだけのリベラリズム言説の大半は、そうした意図を正しくは理解されないでしまうのである。

 

 リベラリズムは、その出発の時点から、思想に偽装することに努めてきた。啓蒙思想や革命前の著述家たちに始まり、社会運動家共産主義社会主義、文芸評論家、芸術家などなど、今日でも援用できる議論は、その議論そのものの由来や目的とは無関係に、いくらでも援用してリベラルな主張を組み立てて、思想的偽装に努めている。とはいえ、偽装の自覚もその意図の意識も持たれずにあったとも言える。その時は、自己欺瞞と言うのが正しいであろうか。穏当に、いや適切に言うならば、混乱し、撹乱されてきた、となるであろう。

 

 これをリベラリズムを社会現象と捉える視点に即したところで述べるならば、リベラリズムの起点は社会情勢であって、そこに出現した選択肢が、その時々のリベラリズム、その情勢下でのリベラルな主張を呼び起こす。社会流行や社会風潮と同様の現象であるリベラリズムは、まさしく同様の特徴を持っていて、その時点の社会情勢、社会状況に規定されているのである。

 

 そしてその時期の社会情勢の様々な具体状況が、その時期でのリベラルな主張を規定するすべてなのである。例えば都市部に新しい職業が複数生まれて、それらへの就職とそれによる都市生活を望んだ者たちが、農村から都会へ出ていこうとするならば、この志向を正当化し、それを制限したり否定したりするものを批判するリベラルな主張がなされることになるが、ここでこの志向を擁護し、援護し、意義づけ、根拠づけ、理屈づけ、美化するといった効果が期待される言論・言説は、ことごとくそのリベラルな主張のために活用されるのである。

 

 ここで様々な具体状況とはまさしくその時点での具体的な情勢のことであって、同じ例で言えば都市部の新職業がどんなものであるか、それに就くことでどんな生活がその時点では得られるのか、それを欲した者が農村部でどんな生活環境にあるか、彼の志向を制限するのがどんなもので、どんな否定や反対をされるのか、これらのその時点での具体的な様子が、リベラルな主張をどんな言論にするかを規定するのである。

 

 これだけでは、およそ言論たるもののいづれにも通ずることで、リベラルな主張の特質が明らかではない。およそ思想としての原理が無く、その原理に規定された統一性が無いと指摘してみても、上の例ではそのことは未だ明瞭ではないし、そもリベラリズムは個人の可能性を原理的価値にしているのだからと、こちらの説明を根拠にした反論がされてしまうであろう。

 

 例えば女性の社会進出のケースならばどうであろうか。このテーマがリベラリズムの発生とともに、すなわち十九世紀にすでに現れていて、以降、ずっと論じられてきたと言ったならば、少し誇張があり、実態を見逃すであろう。それ以降の状況の変化から顧みて、つまり進出の度合いが深まっていった、その時々に振り返って、ずっと論じられてきたとは言えるが、その過去の各時点での論じ方、主張の内容は異なっているのであり、しかもその異なりは、その時点の社会情勢が可能なものしか論じず、その以外はその時点では決して言及されないという異なり方なのである。

 

 婦人参政権が論じられていた時には、女性の政治家、大臣、そして大統領のことなどは念頭になかった。女性の就労は、日本の場合、当初は結婚までのものであり、そのように理解されることに何の問題もなく論じられたが、やがて突然に管理職に採用することが論じ出され、次いで共働きのあり方が描き出され、そして保育サービスが課題視されるようになったが、これらも先行する時点では、後続して課題となることは全く話題にも上らずにきたのである。

 

 その時点で実現可能なものしか、リベラルな主張は取り上げない。しかもこの実現可能性は、社会の側での実現可能性である。選択肢と述べてきたが、人の側から無限に多様なものとして選び出す選択肢ではなく、その時点の社会状況がいわば提供可能だから提示している選択肢である。人間たる存在に基づき、あるいは社会なるものより原理的に構想し、展望して、展開した選択肢では無いのである。

 

 これに対して本来の哲学や思想では、プラトンの国家篇やユートピア思想のように、ある種の普遍永遠の理想的な国家や社会が論じられる。つまり可能な選択肢は、その哲学や思想が原理より導き出す限り、全て提示されるのである。

 

 このようにリベラルな主張は、その時点の社会情勢で選択可能なものを、その時点の現実社会が選択可能として提示してくるものを個人が志向する時に、この限定された志向を正当化し、この志向を否定するものに反論するものであるが、しかしこの反論は否定することを非難するか、賛同するように相手に修正を要求するかの言説となる。しかもこの目的に有効で、利用可能な言説を、志向する事柄に合わせて、適宜活用して構築されたものである。

 

 そしてこうした言論手法を指して、リベラリズムであると定義しても問題はないだろう。もちろんこの言論手法は、個人の可能性の実現とか、個人の志向とかを正当化するために使用されるものである、と必ず併記せねばならないが。続く